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002:制作物に対する客観性(追記有り)


今まで動画編集・印刷物・ウェブと様々なクリエイティブに携わってきたけれど、手がける制作物の形式は違えど、いずれにおいてもデザイナーとして制作する以上、制作物に対しては客観的な視座を保ち続けていなければならない、というのは頻繁に感ぜられるところであった。そして、その客観性を維持することの難しさも、また同様に日々の業務において痛感するところである。

さて、この「制作物に対する客観性」という課題に関して、孫引きのような形にはなってしまうが、〈ビジネスの限界はアートで超えろ!〉(増村岳史、2018)という本によると、1964東京五輪のポスター等で著名なデザイナー・亀倉雄策は、以下のようにコメントしていたという。

アーティストは自分の身体の中にあるすべての思いや感情を吐き出し表現するのが仕事であり、それゆえに作家なのである。デザイナーはあくまでクライアントの課題を解決するのが仕事であるので制作物に作家性を1%でも入れたのであればデザイナー失格である。



東京オリンピック 1962



ここでは「作家性」という言葉を「デザイナーの趣味嗜好≒主観性」と捉えても差し支えないだろう。一聴するとラディカルに聞こえなくもないが、しかしながら実際の制作において、亀倉氏の言うように、求められていない作家性を持ち込んだがゆえに、クライアントの承認が得られないということは往々にして起こる。

また、「それからデザイン」の代表をつとめる佐野彰彦氏は自身のブログ記事(仕事の客観、仕事の主観)の中で以下のように述べている。

プロのデザイナーというのは、商品やクライアントを「客観視」する訓練を受けていて、どんな案件でも一定以上のクオリティーを出すことを求められています。市場にコンシューマーに「売る」という単純明快な成果目標の中に組み込まれていて、デザインの対象を好きとか嫌いという視点で見ることより、徹底して「外側から見る」ことをしています。

やはりデザイナーである以上、製作者の嗜好に対して「客観性」が常に優先されている、という点に言及している。この点に関してはアーティストではないデザイナーである以上共有される視座だと考えてよいだろう。しかしながら、他方で氏は同エントリの結びで以下のようにも述べている。

徹底した客観視をすることは、プロとして必要な要素ではあると思うけど、どこかで「主観」を入れることも大切なことだと、最近よく考えます。
自分だったらこうするな、とか、自分はこっちのほうが好きという感覚はなくしちゃいけないように思います。青臭い表現をすれば、愛、ということでしょうか。
自分が買いたいと思えるか、その企業、その商品を愛せるか。そのためにどんなアイデアが考えられるか。どんなデザインをしたいと思うか。そんな気持ちがまったくない仕事を、「お仕事」としてこなせるようになったら、たぶんデザイナーを引退するときだろうなぁ。
もしかしたら、こんな青臭いことを考えるということは、プロではなくて、アマチュアなのかもしれません。でも、私はそれならそれでいいと思っています。

こちらに関してもやはり自分は強く同意できる。制作しながら、「これって本当に優れたクリエイティブなのか?」「成果は多分上がらないんじゃないか?」と思いつつも、「でもクライアントが良いって言ってるならそれでいいんだろう」という形でクローズすることが多々ある。こういった状況がそれなりにある以上、私は佐野氏が言うところの「デザイナーを引退するとき」なのかもしれない。大袈裟でも何でもなく、もうデザイナーやめようかな、と思うことだって頻繁にある。

特にこの「クライアントが良いって言ってるならそれでいいんだろう」という点については、ある種の割り切りとも、またある種の諦めや放棄とも言える態度ではあるが、まずしっかりと期日内に案件をクローズさせなければならないという前提があるために、という言い訳をもとに「妥結」することの多い点である。そもそも、「あれ、これおかしな状況に進みつつあるな」のままクローズ間際まで進行している時点でおかしいのかもしれない。それは「詰むべくして詰んでいる」とでも言うべき状況である。

こういった状況に往々にして陥るのは、クライアントとのコミュニケーションが初期段階からうまく行っていないことの何よりもの証左なのではないだろうか。デザイナー にとって大切なのは、直接的に手を動かす時間以上に、クライアントとのコミュニケーションであるという話もあるが、それは実感的にも正しいように思う。以下はサンフランシスコと東京にオフィスを構えるbtraxという会社のBrandon K. Hill氏による記事(デザイナーという人達の仕事)よりの引用。

デザインの世界では、コミュニケーションは大きなカギを握っている。恐らくデザイナーの仕事のうち、三分のニはコミュニケーションであると言っても過言ではない。デザイナーの仕事の最初の三分の一が、正しい人を探してその人から正しい情報を引き出す事で、次の三分の一が実際のデザイン作業。そして最後の三分の一が出来たものの情報を正しい人に正しく伝える事。この行程を経て、はじめてきちんとしたデザインが作り上げられる。

つまり、最初と最後の三分の一ずつは、コミュニケーション能力にかかっている。”黙っていても良い物を作れば売れる”という時代は終わり、作ったものの見せ方や、伝え方と言ったマーケティング、プロモーション、プレゼンテーションの部分もデザイナーが考える必要がある。

デザイナーの仕事のうち2/3がコミュニケーションであるとまでしているが、その細かな数値はさておき、かなりの程度デザイナーはコミュニケーションを求められる仕事である。特に、前述のような私の「詰み」の状況自体は、引用中の「正しい人を探してその人から正しい情報を引き出す事」の段階での失敗といえるだろう。

ただ、「正しい情報を持っている人」が存在しない場合はどうだろうか。実際に制作業務をしている上でも、クライアント側が「正解を持っていない」場合が往々にしてある。制作前の打ち合わせの段階で、可能な限り事前のすり合わせを行っても、いざ見てみると「思っていたのと違う」と一蹴される。それを防ぐためにワイヤーを要求し、それをデザインとして成立するレベルに手直しして提出するとやはり駄目。それならと細かく具体的な修正要求を行えば(そうなるともはやデザイナーではなく単なるデザインソフトのオペレーターだが…)、最終的にはクライアントサイドではご満悦の様子だが、前述する「詰み」の状態(=少なくとも制作サイドでは到底満足のいくクオリティではないが、クライアントが良いって言ってるんだから、クローズも近いんだしこれでいこう、という状態)に陥ってしまう…。

とはいえ、この私個人の「詰み状態」の話はおいておくにしても、「制作における客観性の確保」という主題における「客観性」とは2種類あることがこれまでの議論で確認できる。一つが、「クライアントサイドの要求=”正しい情報”としての客観情報」、もう一つが「冷静な目で制作物を見直すための客観的視座」である。




このうち前者が、専らクライアントとの(特に制作以前の)コミュニケーションにおいて情報として仕入れておくべきものであり、後者は製作中にふと制作物から距離を置いてみるためのものである。亀倉氏の言うように、前者においては主観の入りうる余地はなく、むしろ徹底的なヒアリング能力や、場合によっては一を聞いて十を知るような能力が求められるだろう。他方、後者においては、上述佐野氏の引用等にもある通り、製作者の主観も入りうるものと言えよう。佐野氏の言うように、「本当にこれは良いものなのだろうか?」といった着眼点も無論そうだし、はたまた「クライアントが言ってたのって本当にこうだっけ?」と一歩下がって見るようなものもこの部類に入るだろう。

このうち、私にとって前者の部分に問題があることはすでに述べた通りだが、よくよく考えると後者にも問題を抱えている。クライアントに対して、何なんださっきの言い方は…だとか、こないだと言ってること違うじゃねえかよ…みたいな負のエネルギーに翻弄されて、なかなか気持ちの切り替えができずに、仕上げる事のみを目掛けて、やらされてる感の中で漫然と(かつ憤然と)手だけを進めていく、といった状況もやはりあるにはある。しかし、言うまでもなく、それはプロとしてはあってはならないことだろう。デザイナーというポジションで給与を得ている以上、いくらデザイナーの扱いが下手なクライアントやディレクターとの仕事であっても、そこはきちんと仕事をしなければならない、というのは自明のことなのだ。

確かに、少し検索してみると、「デザイナーサイドから見た嫌なディレクション、助かるディレクション」といった記事や特集は多数存在する。確かに、こういったTipsが必要だろうなと思える程度には、今まで見てきたデザイナーは(自分も含め)性格上は一癖も二癖もあるような人が多いような気もしないでもない。そりゃ、世の中のクライアント全てがデザイナーの気持ちに寄り添っていだけたらそれほど助かることはないだろう。だがしかし、根本的に、亀倉氏が引用中で言うように「デザイナーはあくまでクライアントの課題を解決するのが仕事である」以上、受注者たる我々デザイナーが、発注者たるクライアントに寄り添う以外の選択肢は無い。言うまでもなく、デザイナーとうまく付き合って、彼らの能力を最大限引き出すことによってクリエイティブの力を高めていける企業がこの先に抜け出していくのは間違いないとは思うが、それは決してデザイナーサイドが要求できることではないのだ。

とはいえ、「デザイン経営」や、「デザイン・ドリブン・イノベーション」といった言葉がビジネス書で取り上げられたり持て囃される昨今、その言葉の字面だけを見た経営者が単にデザインに口出しするだけだと現場レベルの混乱が深まるだけであり、そうではなくて、デザイナーのインプットやアウトプットのプロセスや、彼らが元々持っているであろう、いわゆる「アートシンキング」にまで理解を深めることは必須だと思うが、特にベンチャーなどの創業マネジメント層に、何の肩書も実績もないペーペーの一介のデザイナーが言ったところで多くが聞く耳を持たないだろう。そう考えると、まずは彼らに話を聞いてもらえるようなポジショニングが求められるな、というところで、おそらく多くのデザイナーは「そんな政治みたいなことがやりたくないからデザイナーやってんだよ」という気持ちになってお終いのような気もする。とはいえ、こういった問題はデザイナーに限らず、たとえば先日は同僚のエンジニアが見積もりや資料作成などで慌ただしくしている中で「こんな営業みたいなことしたくないからエンジニアになったんだよ」と憤ってたのを思い出す。おそらくは大抵の職種で、職位の進行に伴って「こんなことしたくないからこの職種選んだのに…」というレベルに差し掛かる。これについては、本人達の意志の問題でもある一方で、マネジメントの問題でもあり、定見のようなものがあるタイプのものではないだろう。


さて、表題であるところの「制作物に対する客観性」という話題からはずいぶん離れた話にはなってしまったようにも思うが、振り返ってみると、単純に漫然と手を動かして制作しているだけでは客観性を欠いてどうしようもなくなる、というところで、一つはクライアントとのコミュニケーションによって先方の要求を掴み、それを自分の嗜好と離れて制作物に反映していくための客観性がまず必要であり、そして次に制作が進んでいくにつれて、ふと短期的な視座(クローズに間に合わせる、とりあえず言ったとおりにやっておく)から離れて「これは本当に良いものなのだろうか?」と自省するための客観性も必要となっていく、というのがまず表題の回答としてあり、かつ、願わくばそれが実現しやすい環境があればデザイナーとしては助かるし、その環境というものは、経営にデザインのエッセンスが必要だと持て囃される昨今、ちゃんと向き合って作っていったほうがマネジメント層にとっても良いのでは?といったところで総括させていただき、結びとしたい。


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2018年11月25日 追記

デザインについて、クライアントに対する私なりの戦い方という記事の中に、非常に重要でかつ基礎的な示唆が載っていたので引用したい(強調筆者)。

私がここ最近横暴な目に逢いモヤモヤしてたのを吐き出すような気持ちで、打倒クライアント!みたいな感じで書いてしまいましたが、一番大事なのはそれを受け取ったエンドユーザーがどう感じるかですよね。
エンドユーザーは、私たち制作側のいざこざなんかぜんっぜん関係ないわけです。そして、エンドユーザーに想いを届けるのはクライアントです。私たちは、それを一番良い形で橋渡しするのが仕事です。

エンドユーザーのことを考えずに、デザイナーとクライアント(意思決定者)で綱引きやってたって仕方がないというわけで、これについては猛省したい。



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