私が選ぶ2018年のベスト・ニュー・アルバムです。
10.〈Room 25〉 No Name
9.〈Some Rap Songs〉 Earl Sweatshirt
8.〈Hive Mind〉 The Internet
7.〈Oxnard〉 Anderson Paak
6.〈Chris Dave and The Drumheadz〉 Chris Dave and The Drumheadz]
5.〈Care For Me〉 Saba
4.〈Semi Circle〉 The Go! Team
3.〈Stray Dogs〉七尾旅人
〈リトルメロディ〉・〈兵士A〉と、本人が言うところの「コンシャス」な作品が続いてきた中で、昨今の世界を見渡したときに、より「コンシャス」なアルバムをリリースするのだろうと考えていた僕は、いま誰よりもその新譜を心待ちにしていた、いや、より正確を期すならば、その新譜が世界に一番必要だと思うミュージシャンが七尾旅人であった。だから、リリースにまつわる彼の一挙手一投足は見逃すことのないようチェックし続けて、ライブも見れるだけ見てきた。そしてようやくアナウンスがあり、程なくして実際にリリースされたアルバムを聞き始めるととても驚いた。〈リトルメロディ〉のようなアコースティックな響きも、〈兵士A〉のような息を呑むような緊張感もここにはない。ただひたすらに、この世界から「はぐれてしまった」人々の、困惑や後悔、あるいは愛着を歌い続ける、ある意味非常にパーソナルな音が鳴らされ続けていた。さて、ここで歌われる「はぐれてしまった」とは、どういうことなのか。本来の場所からいなくなってしまった人。いられなくなった人。あるいは、そうして人々(あるいは犬、場所、時間…etc)が去って行き、取り残されてしまった人々。七尾旅人はそういった人々の心情に可能な限り寄り添いながら歌を紡ぐ。若手の邦楽ロックバンドの歌詞にも「わかった風な」メタ的な歌詞が増えてきたが、七尾旅人のアプローチはその真逆であり、個々の境遇に出来るだけ奥深く寄り添い、最も普遍的な感情を引き出す歌を描こうと試みている。そのスタンス自体は、彼のいう「コンシャス」であるところの「兵士A」等でも無論一貫しているのだが、他方で「兵士A」などのように、情景を描写するような説明的なヴァースは少なくなり、感情の根っこの部分を歌い続けることに最も注力しているように思う。それでいて、面白いのが、楽曲の主人公たちは、現代の日本に暮らしていたり、どこか遠くの崖の高い家に住んでいたり、アフリカにいたり、宇宙にいたりする。ここで僕が思い出すのが、ニーチェの「ツァラトゥストラ」が最終的に肉体を超えて世界中を飛び回るシーンだが、「ツァラトゥストラ」が「全てから自由になった力の化身」であるのに対し、七尾旅人は「徹底的にパーソナルである詩人」であるという対称性は非常に面白い。ニーチェが言うような、人々を自戒させるまやかしの道徳からの解脱=力の獲得というプロセスではなく、徹底的にパーソナルであり続けることで、同じく時空を飛び越えられる能力を獲得できるという事実を雄弁に示したのが〈Stray Dogs〉における七尾旅人だと言えよう。ニーチェ流のニヒリズムではなく、七尾旅人流の愛をこめたリリックで、時空を超えた作品を作り上げたのだ。
2.〈Black Panther The Album〉Kendrick Lamer
2018年のKendrick Lamerの活躍はもはや改めて指摘されるまでもないだろう。ミュージック・シーンのみならず、ミュージシャンとして初めてピューリッツァー賞を受賞するなど、彼の一挙手一投足は、もはやこの混迷を極める世界において苦しむ人々を照らす一筋の希望になっているとさえ言ってしまってもおかしくない。我が国にも、奇しくもノーベル賞受賞者とピューリッツァー賞受賞者をヘッドライナーとして並べた今年のFUJI ROCKで来日しているが、この演奏を自分は見ることができなかったけれど、この選択は間違いなく後悔するものとなるだろうことは既に確信している。さて、今年公開の映画「Black Panther」に提供されたアルバムである今作は、Kendrick LamerというミュージシャンのプレゼンスをJimi HendrixやFela Kutiといった偉大なる先達と同じところまで高めた一作だったと言いたい。この偉大なるのパフォーマンスは、時折この地球を超越して、宇宙とコネクトする壮大さを帯びる瞬間がある。彼らのルーツであるアフリカの夜空に広がる満点の星空に浮かぶ星々の周期性がビートと重なり合うことで、そこに宇宙が生まれるのだ。その壮大なサウンドスケープは、ブラックミュージシャンの中でもさらに僅かな一握りの者にしか描くことはできないが、〈Black Panther The Album〉で鳴っているのは確実にその種の音像である。映画〈Black Panther〉で、アフリカの民族達のトライバルなダンスを模したであろう踊りが披露される一幕があった頃、奇しくもTLでは特にアフリカンミュージックに傾倒していた頃のTalking Headsのライブ映像の「奇妙なダンス」のgif画像がバズっていた。誰も指摘する人はいなかったが、Talking Headsのあのダンスは確実にアフリカのトライバルなダンスを模していると言える。無論、Talking Headsもとても好きなバンドではあるが、やはりあの「奇妙なダンス」を本当に自分の物にするには、白人の身体性では到底不可能なのである。そう考えると、かつてアフリカから新大陸に連行されてきた人々がポピュラー・ミュージックにもたらしてきた多大なる貢献に対する畏敬の念が更に深まっていく。いくら表面を剽窃されど真似しきれない音楽を彼らは鳴らし続けてきて、謂れのない理不尽を受けるこの時代であっても、それを鳴らし続けることが彼らの世界に対するプロテストなのだということを再確認させられた傑作が〈Black Panther The Album〉であった。
1.〈Cocoa Sugar〉Young Fathers
奇しくも映画に関する2作が並んでしまう形になってしまうが、彼らの名前を久しぶりに聞いたのは2017年、シネクイントで観た〈T2:Trainspotting2〉のエンドロールの中であった。映画は大変素晴らしく、僕らの世代が後ろ姿を追いかけて何度も見た〈Trainspotting(1997)〉の主人公たち、あんなにもクールでアナーキーだった彼らでさえも、20年という歳月を経るとそのままではいられなくなるという、当たり前の事実を逃げることなく描いていて、社会人になって数年が経ち、削りとった自我と交換で買う安心と寝るだけの毎日を過ごしている僕はとてもとても苦しくなったものだった。〈T2〉の主人公たちにも僕にも、一音目から僕らを異世界へと連れてってくれるあの〈Born Slippy〉は聞こえてこないのだと気付いて、愕然としたものだった。そして、その事実の前にただ呆然と立ち尽くすばかりで、Underworldに代わって楽曲を提供していたYoung Fathersのこと等僕はついぞ忘れていたのが正直なところだった。それから約1年後、〈Cocoa Sugar〉はリリースされて、改めて彼らのことを思い出し、聞いてみる。通しで聞いたみたが、正直なところ、よくわからない。ただ、それからも時々思い出して聞いてみたくなる。そうやって再生する度にこのアルバムからシャッフル用プレイリストに何曲かずつ増えていく。そしてそのプレイリストを聞き、またシャッフルされた〈Cocoa Sugar〉の楽曲からアルバムに辿ってアタマから再生する。そんなことを何回も繰り返して、気付いたら忘れられない1枚になっていた。こんな風な形で好きになるのは、高校時代に初めて聞いた〈OK Computer〉以来だった。だから、2018年に再来した〈OK Computer〉といえば、巷でにわかに言われているようにThe 1975の新譜ではなく(もちろん彼らのアルバムも素晴らしかったのだが)、僕にとっては〈Cocoa Sugar〉しか考えられないのだ。このアルバムを織りなす、少しグリッチしたドラム・マシンの音色、劣化したカセットテープのようなサンプリング、サイケなダビング、突拍子もなく飛ぶこんでくるファジーなシンセの異物感…。これらが生き物のように織り重なり合うことで荒涼と混迷とを同時に彷彿とさせるそのサウンドスケープは、まさしく〈OK Computer〉以来の、音像だけでディストピアを描き切った快/怪作だと言うに相応しい。そして、この比較が更に許されるのであれば、〈OK Computer〉では混乱を混乱として、そして救済を救q済としてそれぞれ独立して描いた楽曲が奇妙に入れ替わり立ち替わり現れていたのに対し、あまりに強大な混乱を前にして、半ばそれを当然のことだと受け入れつつも苦しみ(「慣れずに染みる」、「慣れてきたってあんたは言うが意味がわからない」とある人がかつて歌ったように)、時おり邂逅する小さな高揚や救済を希望に濁流を泳ぎ切ろうとするのが〈Cocoa Sugar〉だと言えるように思う。現代を巣食う強い混迷の中で、弱い希望を見失わずに生き抜いていくために祈り、歌うのがYoung Fathersであり、〈Born Slippy〉が聞こえない世界で踊り続けるために〈Cocoa Sugar〉の楽曲達が鳴っていることに気づいたならば、このアルバムが2018年で最も素晴らしいニューリリースだったと断言するのに些かの迷いも僕は持たない。
10.〈Room 25〉 No Name
9.〈Some Rap Songs〉 Earl Sweatshirt
8.〈Hive Mind〉 The Internet
7.〈Oxnard〉 Anderson Paak
6.〈Chris Dave and The Drumheadz〉 Chris Dave and The Drumheadz]
5.〈Care For Me〉 Saba
4.〈Semi Circle〉 The Go! Team
3.〈Stray Dogs〉七尾旅人
〈リトルメロディ〉・〈兵士A〉と、本人が言うところの「コンシャス」な作品が続いてきた中で、昨今の世界を見渡したときに、より「コンシャス」なアルバムをリリースするのだろうと考えていた僕は、いま誰よりもその新譜を心待ちにしていた、いや、より正確を期すならば、その新譜が世界に一番必要だと思うミュージシャンが七尾旅人であった。だから、リリースにまつわる彼の一挙手一投足は見逃すことのないようチェックし続けて、ライブも見れるだけ見てきた。そしてようやくアナウンスがあり、程なくして実際にリリースされたアルバムを聞き始めるととても驚いた。〈リトルメロディ〉のようなアコースティックな響きも、〈兵士A〉のような息を呑むような緊張感もここにはない。ただひたすらに、この世界から「はぐれてしまった」人々の、困惑や後悔、あるいは愛着を歌い続ける、ある意味非常にパーソナルな音が鳴らされ続けていた。さて、ここで歌われる「はぐれてしまった」とは、どういうことなのか。本来の場所からいなくなってしまった人。いられなくなった人。あるいは、そうして人々(あるいは犬、場所、時間…etc)が去って行き、取り残されてしまった人々。七尾旅人はそういった人々の心情に可能な限り寄り添いながら歌を紡ぐ。若手の邦楽ロックバンドの歌詞にも「わかった風な」メタ的な歌詞が増えてきたが、七尾旅人のアプローチはその真逆であり、個々の境遇に出来るだけ奥深く寄り添い、最も普遍的な感情を引き出す歌を描こうと試みている。そのスタンス自体は、彼のいう「コンシャス」であるところの「兵士A」等でも無論一貫しているのだが、他方で「兵士A」などのように、情景を描写するような説明的なヴァースは少なくなり、感情の根っこの部分を歌い続けることに最も注力しているように思う。それでいて、面白いのが、楽曲の主人公たちは、現代の日本に暮らしていたり、どこか遠くの崖の高い家に住んでいたり、アフリカにいたり、宇宙にいたりする。ここで僕が思い出すのが、ニーチェの「ツァラトゥストラ」が最終的に肉体を超えて世界中を飛び回るシーンだが、「ツァラトゥストラ」が「全てから自由になった力の化身」であるのに対し、七尾旅人は「徹底的にパーソナルである詩人」であるという対称性は非常に面白い。ニーチェが言うような、人々を自戒させるまやかしの道徳からの解脱=力の獲得というプロセスではなく、徹底的にパーソナルであり続けることで、同じく時空を飛び越えられる能力を獲得できるという事実を雄弁に示したのが〈Stray Dogs〉における七尾旅人だと言えよう。ニーチェ流のニヒリズムではなく、七尾旅人流の愛をこめたリリックで、時空を超えた作品を作り上げたのだ。
2.〈Black Panther The Album〉Kendrick Lamer
2018年のKendrick Lamerの活躍はもはや改めて指摘されるまでもないだろう。ミュージック・シーンのみならず、ミュージシャンとして初めてピューリッツァー賞を受賞するなど、彼の一挙手一投足は、もはやこの混迷を極める世界において苦しむ人々を照らす一筋の希望になっているとさえ言ってしまってもおかしくない。我が国にも、奇しくもノーベル賞受賞者とピューリッツァー賞受賞者をヘッドライナーとして並べた今年のFUJI ROCKで来日しているが、この演奏を自分は見ることができなかったけれど、この選択は間違いなく後悔するものとなるだろうことは既に確信している。さて、今年公開の映画「Black Panther」に提供されたアルバムである今作は、Kendrick LamerというミュージシャンのプレゼンスをJimi HendrixやFela Kutiといった偉大なる先達と同じところまで高めた一作だったと言いたい。この偉大なるのパフォーマンスは、時折この地球を超越して、宇宙とコネクトする壮大さを帯びる瞬間がある。彼らのルーツであるアフリカの夜空に広がる満点の星空に浮かぶ星々の周期性がビートと重なり合うことで、そこに宇宙が生まれるのだ。その壮大なサウンドスケープは、ブラックミュージシャンの中でもさらに僅かな一握りの者にしか描くことはできないが、〈Black Panther The Album〉で鳴っているのは確実にその種の音像である。映画〈Black Panther〉で、アフリカの民族達のトライバルなダンスを模したであろう踊りが披露される一幕があった頃、奇しくもTLでは特にアフリカンミュージックに傾倒していた頃のTalking Headsのライブ映像の「奇妙なダンス」のgif画像がバズっていた。誰も指摘する人はいなかったが、Talking Headsのあのダンスは確実にアフリカのトライバルなダンスを模していると言える。無論、Talking Headsもとても好きなバンドではあるが、やはりあの「奇妙なダンス」を本当に自分の物にするには、白人の身体性では到底不可能なのである。そう考えると、かつてアフリカから新大陸に連行されてきた人々がポピュラー・ミュージックにもたらしてきた多大なる貢献に対する畏敬の念が更に深まっていく。いくら表面を剽窃されど真似しきれない音楽を彼らは鳴らし続けてきて、謂れのない理不尽を受けるこの時代であっても、それを鳴らし続けることが彼らの世界に対するプロテストなのだということを再確認させられた傑作が〈Black Panther The Album〉であった。
1.〈Cocoa Sugar〉Young Fathers
奇しくも映画に関する2作が並んでしまう形になってしまうが、彼らの名前を久しぶりに聞いたのは2017年、シネクイントで観た〈T2:Trainspotting2〉のエンドロールの中であった。映画は大変素晴らしく、僕らの世代が後ろ姿を追いかけて何度も見た〈Trainspotting(1997)〉の主人公たち、あんなにもクールでアナーキーだった彼らでさえも、20年という歳月を経るとそのままではいられなくなるという、当たり前の事実を逃げることなく描いていて、社会人になって数年が経ち、削りとった自我と交換で買う安心と寝るだけの毎日を過ごしている僕はとてもとても苦しくなったものだった。〈T2〉の主人公たちにも僕にも、一音目から僕らを異世界へと連れてってくれるあの〈Born Slippy〉は聞こえてこないのだと気付いて、愕然としたものだった。そして、その事実の前にただ呆然と立ち尽くすばかりで、Underworldに代わって楽曲を提供していたYoung Fathersのこと等僕はついぞ忘れていたのが正直なところだった。それから約1年後、〈Cocoa Sugar〉はリリースされて、改めて彼らのことを思い出し、聞いてみる。通しで聞いたみたが、正直なところ、よくわからない。ただ、それからも時々思い出して聞いてみたくなる。そうやって再生する度にこのアルバムからシャッフル用プレイリストに何曲かずつ増えていく。そしてそのプレイリストを聞き、またシャッフルされた〈Cocoa Sugar〉の楽曲からアルバムに辿ってアタマから再生する。そんなことを何回も繰り返して、気付いたら忘れられない1枚になっていた。こんな風な形で好きになるのは、高校時代に初めて聞いた〈OK Computer〉以来だった。だから、2018年に再来した〈OK Computer〉といえば、巷でにわかに言われているようにThe 1975の新譜ではなく(もちろん彼らのアルバムも素晴らしかったのだが)、僕にとっては〈Cocoa Sugar〉しか考えられないのだ。このアルバムを織りなす、少しグリッチしたドラム・マシンの音色、劣化したカセットテープのようなサンプリング、サイケなダビング、突拍子もなく飛ぶこんでくるファジーなシンセの異物感…。これらが生き物のように織り重なり合うことで荒涼と混迷とを同時に彷彿とさせるそのサウンドスケープは、まさしく〈OK Computer〉以来の、音像だけでディストピアを描き切った快/怪作だと言うに相応しい。そして、この比較が更に許されるのであれば、〈OK Computer〉では混乱を混乱として、そして救済を救q済としてそれぞれ独立して描いた楽曲が奇妙に入れ替わり立ち替わり現れていたのに対し、あまりに強大な混乱を前にして、半ばそれを当然のことだと受け入れつつも苦しみ(「慣れずに染みる」、「慣れてきたってあんたは言うが意味がわからない」とある人がかつて歌ったように)、時おり邂逅する小さな高揚や救済を希望に濁流を泳ぎ切ろうとするのが〈Cocoa Sugar〉だと言えるように思う。現代を巣食う強い混迷の中で、弱い希望を見失わずに生き抜いていくために祈り、歌うのがYoung Fathersであり、〈Born Slippy〉が聞こえない世界で踊り続けるために〈Cocoa Sugar〉の楽曲達が鳴っていることに気づいたならば、このアルバムが2018年で最も素晴らしいニューリリースだったと断言するのに些かの迷いも僕は持たない。
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